!!!おことわり!!!
今回の旅は負の遺産を訪ねるダークツーリズム。
見たこと感じたことをそのまま書き留めています。
当時の人のコメントの中には、現在では不適切とされる言葉が含まれています。また、ショッキングな画像もあるので、必要に応じて最後の6番アム・シュタインホーフ教会こと聖レオポルド教会まで飛ばして読んでください。
- シュタインホーフ
- アム・シュピーゲルグルントを知っていますか
- 「アスペルガー症候群」という診断名とアム・シュピューゲルグルント
- アスペルガー医師はヒーローだったのか
- 『白い街』
- アム・シュタインホーフ教会こと聖レオポルド教会
まずは基本情報から。
シュタインホーフ
ウィーンの西のはずれに、世紀末芸術ウィーン分離派の中心人物であり、また近代建築を追求したオットーワグナーが都市計画をしたシュタインホーフという、かつて精神科病院だった広大な施設がありました。


シュタインホーフは精神病患者の治療やリハビリのためには良い環境が大切というホリスティックな理念のもと、広大な森を背にしてウィーン市内を見下ろせる高台に病院棟のみでなく教会を始め劇場や作業場など療育のための施設も敷地内に作られました。
その一角に「アム・シュピーゲルグルント」と呼ばれる児童向けの施設がありました。
そして、今回の旅の一番の目的が、ここ、アム・シュピーゲルグルントを訪れることでした。はっきり言って、いわゆる”Busmans’ holiday” です。(バスの運転手がバス旅行したことから、職場に関係した、または仕事の延長のような旅を指す)
アム・シュピーゲルグルントを知っていますか

1940年から1945年のあいだ、ナチス政権下では「T4作戦」と呼ばれる「身体障がい者や精神障がい者の安楽死」政策がありました。
ナチスが行なったT4作戦は表向きには1941年には中止されていますが、第二次世界大戦が終結した後も続けられていたことが分かっています。
この「子どもの安楽死」政策のもとで、789人ともいわれる障がいのある子どもたちがここシュピーゲルグルントで命を落としました。表向きの死因は肺炎とされていましたが、実際には投薬やガスによる死のほか、十分な食事を与えられずに餓死した子どもたちもいた事が分かっています。
現在ではシュピーゲルグルントだった建物の前には、789本の棒がモニュメントとして前庭に埋められています。
「アスペルガー症候群」という診断名とアム・シュピューゲルグルント
かつて「アスペルガー症候群」という診断名の由来になった医師、ハンス・アスペルガーは、当時ウィーンで子どもの診療にあたり、またアム・シュピーゲルグルントによく通って患者の経過観察を行っていました。
1944年に発表された彼の博士論文「The Autistic Psychopaths in Childhood」では軽度の精神障がい児を擁護しています。私も含めて、一般にはアスペルガー医師のイメージと言えば、弱者の味方といった方です。
1990年代には、上にあるようなガラス容器に漬けられた800体もの子どもの生体標本(頭部標本)、脳標本が発見されて国際的なスキャンダルとなりました。長年保管されていた犠牲者の脳標本や遺骨は、遺族や市民へ返還・供養されることとなり、2002年4月にウィーン中央墓地に正式に埋葬されたのです。
その一方で、彼がこのアム・シュピーゲルグルントに複数の子どもを紹介していたことを示す記録が見つかり、2018年発表され大きな議論になりました。
「診断名に医師個人の名前を残すべきではないのでは」という声が広がったのは、このころからです。
その名前が使われなくなっていった背景に、まずは、こうした重い歴史があることを、行く前に知っておきたいと思いました。
アスペルガー医師はヒーローだったのか
実は、この問題は今も決着していません。その後の研究では、「彼が安楽死政策を知っていたという明確な証拠はない」あくまでもホリスティックな環境で経過観察を指示しただけだったとする反論も出ており、歴史家の間でも意見が分かれています。
展示のなかで、いちばん胸に刺さったのは、ある母親が書いた手紙でした。
しかし、これはあくまでも個人的な感想ですが、当時、市民によるT4作戦反対運動やイギリス軍による空からの啓蒙作戦などもありアム・シュピーゲルグルントで何が行われていたのかは明白だった事。
また、入院患者の死亡率の異常な増加から見ても、明確な証拠(記録や書簡)が残っていないだけでアスペルガー医師は病棟で何が起こっていたのかを全く知らなかったという事は、まずあり得ないのではと思うのです。市民でさえもうすうす感じ取っていた、知っていたから反対運動が起こった訳ですから。
そして、この「子どもの安楽死」政策は、のちのホロコーストと無関係ではありません。
名前を変え、建物に新たな役割を与えても、そこで行われた恐ろしい過去と犠牲になった子どもたちの記憶を消し去ることはできないし、決して忘れてはならないと思います。
ここで確立された「餓死させる」「薬物で殺す」といった手法や、関わった医師・スタッフの一部が、のちに絶滅収容所ビルケナウの運営に転用されていったことが、歴史研究のなかで指摘されています。
アム・スタインホフの患者の死亡率は、1936年が年間で6.54%だったのが、1945年には42.76%に増加しました。戦時下なので全国的に見て死亡率が上がるのは当然ではありますが、戦地に赴かずに療養中の患者と考えるとやはり異常なほどの増加率と言えます。
昨年、私はアウシュビッツとビルケナウを訪れましたが、あのとき見たものと、これから訪ねようとしている場所とが、まったく別の出来事ではなく、ひとつの線でつながっているのだと、今回調べていて初めて実感しました。
『白い街』
ウィーン中心部から地下鉄とバスで約1時間程で、『白い街』と呼ばれた旧シュタインホーフ病院に到着します。
敷地に近づくにつれ、その広さに驚きました。建物群は、想像していたよりずっと美しく、ユーゲント・シュティール様式(アール・ヌーボー)でウィーン分離派そのままの意匠。
丘の上には、黄金のドームを頂いた教会が見えて、バスの窓からでも自然と目が引き寄せられました。
シュピーゲルグルント(旧子ども病棟・第15パビリオン周辺)は、戦後は「中央食堂(Zentralküche)」や「講堂(Festsaal / Jugendstiltheater)」、そして現在では、文化的な劇場スペース(Theater)へとその役割を変えてきました。
その手前のパビリオンには市立の音楽大学が入っていてレッスンが行われていました。
市立大学が移転していた事を知らず、昔のままの外観を持つ建物は今も精神病院として使われているものと勘違いしていたので声楽の発声練習とピアノの音に一瞬、どきっとさせられました。タイムスリップしたような感覚になりながら坂をゆっくりと上っていきました。




その上方に第11パビリオンの記念館棟があります。開館時間にばらつきがあるので、事前確認するのをお勧めします。
棟内はT4作戦に関する資料が展示された博物館とそしてアートを展示するスペースに分かれています。
展示はドイツ語だけだったので、ドイツ語が全く出来ない私はスマートフォンの翻訳機能を使いながら、一つひとつ読んでいきました。
時間はかかりますがお勧めします。
とにかく見ていて怒りしかありませんでした。






実は一大スキャンダルとなったのは、この小児病棟アム・シュピーゲルグルントで行われた安楽死作戦だけではありません。
戦後もここでは元ナチス医師のハインリヒ・グロス(Heinrich Gross)らによって犠牲となった子どもの研究が続けられていました。
脳標本が最も多く発見されたのがアム・シュピーゲルグルントの地下。現在では劇場スペースとしてコンサートが行われている…何とも複雑な気分になりました。
アム・シュタインホーフ教会こと聖レオポルド教会
記念館でアートの展示も見た後にパビリオンを出て、次に寄ったのが、丘を登ったところにあるアム・シュタインホーフ教会(聖レオポルド教会)です。
病院敷地から離れたところからでも、ひときわ目立つ黄金色のドームを持つ、建築新時代の幕開けにふさわしい、ヨーロッパ初の近代的な教会です。
このアム・シュタインホーフ教会はウィーン分離派、ユーゲント・シュティールの美を極めているだけではなく、精神病院内の建築物である事を念頭に置き、使い手を考えた細かい配慮が随所に見られます。機能性と芸術の融合。それはまた、オットー・ワーグナーが終生抱き続けた構想です。
新しい事を始めるとなかなか理解されなかったりしますが、ここも建立当時から賛否両論があった場所で「インドのマハラジャの墓所」などと表現されたり、当時の州議会議員には「今までで最もまともな分離派の建物が、まともじゃない人のために造られたのは、なんという皮肉だろう」とまで言われました。




フランツ・フェルディナント大公が1907年10月にシュタインホーフ病院を開院した時、大公は教会の様式が全く気に入らなかった、とワーグナーが日記に残しています。
正直に言うと、私はこの教会の存在についての前知識が全くないままに訪問しました。もともとアム・シュピューゲルグルントを訪れるのが目的だったので病院そのものの文化遺産としての価値を理解していなかったのもありますが、シュタインホーフそのものが名前を変え、その上、教会もいくつか呼び名があるので、調べてもあまり大したものが出なかったというのがあります。
第一印象は、キラキラ。
ステンドグラスの雰囲気は、プラハ城内のチャペルのものによく似ていると思いました。同じくユーゲント・シュティール様式なので、当然と言えば当然なのですが。あちらはミュシャの手によるものでしたが、こちらはクリムトとともにウィーンの世紀末芸術を牽引したコロマン・モーザー作。同じような、光を通して色が空間そのものを満たしていくような感覚がありました。


正面の祭壇に気を取られていて、説明文を読むまで気がつかなかったのですが、ここはどこからでも祭壇と説教壇が見えるよう、祭壇に向かって床に30㎝の勾配がついているそうです。また、病院内の施設なので患者や看護師が出入りできやすいように席の幅をとってあること。急に症状が悪化した患者へ応急処置を施すために医師が常駐する部屋が脇にあり、緊急時には避難経路としてその部屋にあるドアから直接外に出られる造りになっていること。
感染予防と同時に患者が聖水でいたずらをしないように、水が少しづつ上部から流れる仕組みになっている聖水盤など、一見、キラキラした美しいものとしか見えないものが、実は計算しつくされた機能を持ち合わせることに気づいて再び驚きました。




入口の上のアーチにあるステンドグラスは、外側からのみ見ることが出来る造りになっています。この窓の内側にはパイプオルガンがあります。それは、珍しいウィーンに三台しかない圧縮空気を使ったオルガンだそうですので、楽器に詳しい人が見たら違いがわかるかもしれません。


ここでの病院としての機能は既になく、精神病院も3年前に移転が完了し、今では設計者オットー・ワーグナーの名を冠したエリアとして再開発の真っ最中です。
おそらく、あと数年もすれば博物館棟とアム・シュピルーグルント前の慰霊モニュメントにわずかに負の記憶を残すのみで、ユーゲント・シュティールを極めた文化遺産のエリアとして残されるのではないかと思っています。
【行きかた】 ⇒ウィーン市内より トラム18番または地下鉄U6,Thaliastraße下車、そこからThaliastraße, Koppstraßeでバス48AKlinik Penzing行きに乗り、Otto Wagner Areal下車。
【開館時間 】⇒アム・シュタインホーフ教会は月曜休館 記念館は水曜日―土曜日のみで、土曜日は午後のみ。
【参考資料】 ⇒ Edith Sheffer著Asperger’s Children: The Origins of Autism in Nazi Vienna 2018年に出版されたここに関する本。 アマゾンのリンクですがアフェリエイトではありません。
「【オーストリア】美しき聖堂と隠された暗部-ウィーン・シュタインホーフの光と影」への1件のフィードバック